入江佑未子のライティングサンプル

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1秒の人生訓

1秒の人生訓                         

うす曇りの10月の夕刻、渋谷に到着した私は、私用の時間まで駅にほど近いマクドナルドで本を読んでいた。

ほどなくして、ガラス越しのカウンターの隅に席をとっていた私の二つ先に、制服姿の女子高生が座った。

「マジ、ふざけんなよ~」

「は?だからガラスんとこの席とったから、はやくして!」

 

彼女の、電話の相手に発する声は必要以上に大きい。若さゆえの強烈な自意識が、周りの空気を変えた。

しかも、この店の席の間隔は、繁盛店の客席をかせぐべく、異常なほど狭い。彼女の隣の男性の心情はいかばかりか。

 

間もなく彼女の連れである母親らしき中年の女性が現れ、耳に障る会話が始まった。

どこかの飲食店の批判、JKの制服についての講釈、眉毛がないことによる、アイブロウの必要性。

暴力的に意識に入り込んでくる会話のせいで、こちらは本の世界と女子高生の世界を行ったり来たりである。

しばらくして彼女の隣の男性が席を立ち、続いてカップルと思われる男女がそこに席をとった。相変わらず、大音量は続いている。

 

それから二十分ほどたった頃だろうか。

不穏なりに保たれていた均衡がいきなり崩れた。

「うるせーんだよ!」

カップルの男性だ。

 

場が凍りついた。

本どころではない。

チラと女子高生を盗み見する。彼女はビックリして男性のほうを向き、向き直って髪をいじっている。

母親らしき女性も声を発さない。

大音量よりも恐ろしい静寂があたりを包んだ。

 

私は本に目線を落としながら、完全に心ここにあらずの状態となってしまった。

先ほどまで憎々しく思っていた少女に、なぜか憐憫の情のようなものが沸く。

男性は、もっと別の言い方もできたのではないか。怒鳴られた彼女は今、どんな気持ちなのだろう。きつい言葉を浴びせられた娘を目の当たりにしている母親の切なさは、いかばかりか。

私にも女子高生の娘がいる。うつむく中年の女性は私と重なり、女子高生はわが娘と重なる。

あれこれと思いを巡らせていると、

「あんたのね、声は高いのよ」

「そう。そういうことなのよ」

という抑えこんだ声がした。母親だ。

 

「そういうこと」。

そうなのだ。娘は非常識を全面に押し出すことで自意識を満たそうとし、母はそれを抑えられない。娘は間違った方向に行きかけている自分をもてあまし、母は娘に気兼ねして、娘を正しい方向に導くことができない。そんな家族の現実が、その一言に重く沈んでいた。

私のなかにも覚えのある、胸につかえるような思い。

 

しばらくして、怒鳴りつけた男性が席を立った。

すると、

「どうもすいませんでした」

と、母親が、はっきりとした謝罪を男性の背中に向けた。

「いえ」

もはや怒りの消えた男性が気持ちよく応える。

とりあえず終わった。

ひとごとながら、安堵の気持ちが私の中に広がる。

それと同時に、多分、これでよかったのだと思った。

この出来事が、起こってよかった。

男性は、一番身近にいる人間がなしえない人生訓を、彼女に与えたのだから。

「うるせーんだよ!」

社会は、自分中心に回っていない。うるさくすれば人に迷惑をかける。そして、こんな風に怒鳴られることがある。

たったこれだけのことを、身近にいるものだからこそ伝えきれない。見知らぬ男性が彼女に与えた1秒の人生訓を胸に、この親子には頑張ってほしいと思った。