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<自己紹介とブログの趣旨>
はじめまして。
こんにちは。
お世話になります、ライターの入江佑未子です。
こちらのブログには、私、いりゆみ(通称です。覚えていただけると嬉しいです!)が今までに書いてきた記事を載せております。
至らない点も多々ございますが、文章の質をこちらでご確認いただき、採用等のご参考にしていただければ幸いです。
「納期厳守」、「ひとつひとつの記事に対する誠意」をなにより大切にライティングを行っております。
採用者様との素敵なご縁を楽しみにしております。
あなたの思い、あなたの人生を記事にしませんか?
心の内にあるあなたの「思い」を、多くの人に伝えてみませんか。公然と人に向かって話せるようなことでなくてもかまいません。むしろ、人に言えないようなことを心に秘めているのが「ひと」ではないでしょうか。社会という大海原の中には、きっとあなたの思いに共鳴する人たちがいます。
詳しくはこちらから
<プロフィール>
跡見学園短期大学文化英文学科卒業後、生命保険会社に勤務。
その後ライターとして園芸を扱う出版社に勤務。
結婚、出産を経た後、地域情報サイトにて記事を執筆。
フリーにて弁護士事務所のサイトコンテンツ作成、ショップサイトのテキストなどを担当。
・紙媒体、WEBサイトともに経験しております。
・様々なテーマを調べて書くことに慣れております。
<記事へのアクセスはこちらから>
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ショップサイトテキスト
クライアント様に著作権があるため、非公開としております
その他まだございますが、入力は今のところここまで完了しました・・・!
どうぞよろしくお願いします。
いりゆみ
インタビュイー募集
インタビュイー募集!
いりゆみは、あなたの思い、あなたの人生を文章にします。取材費等は出すことができませんが、あなたの気持ちを、より多くの人に伝えてみませんか。
下記の1・2・3のなかにあてはまるものがある方は、ぜひご連絡ください!
1・人に言えない過去や、辛い現在のお話をお聞かせください
・過去に闇金で取り立ての仕事を行ってきた
・精神疾患で、苦しい人生を強いられている
・夫や恋人のDVに苦しんでいる
・過去に罪を犯している
・懺悔したい過去がある
・貧困に苦しんでいる
など
2・さまざまな苦難を経て幸せや生きがいをつかんだ方も大歓迎です。
・事業に失敗したが、いまは好きなことで幸せに暮らしている
・何かをあきらめたことで、楽になった。
・薬物依存やギャンブル依存を克服した
など
3・職業を通して見えてきたことを教えてください
・弁護士をしていて思うこと
・便利屋の目線から見る日本の社会
その他、看護婦や介護士など、専門の職を持っている方
なお、以下の点をご承知の上、ご依頼ください
・掲載媒体は今のところ連載jpを予定しております
・取材は、喫茶店などの公の場所で行います
・いりゆみは別の仕事をもっているため、インタビューをお待たせすることがあります
ご興味を持たれた方は【mitan_1113♡yahoo.co.jp】まで!
記載内容は以下です。
(♡を@に変えてご送信ください)
件名 インタビュイーに関して
氏名 できれば本名をお願いします。匿名でも構いません(個人情報は固くお守りします)
性別 男 女
年齢
住所 「○○県○○市」等までで構いません(遠方では難しい場合があります。いりゆみは関東圏内在住です)
ご希望内容 上記の1・2・3いずれかを明記の上、何をお話していただけるかを簡単にお書きください。
「配偶者控除制度」改正にみる国民の「壁」
実質、働く主婦の長時間就労の妨げとなっている「配偶者控除制度」が、2018年1月に改正されることとなった。安倍首相がこの制度の見直しを示唆したのが2014年。一時は配偶者控除そのものの廃止が検討されていた時期もあったが、最終的には現行の「妻の年収103万円以下」から「150万円位以下」に適用の幅を広げる形で落ち着くこととなる。
そもそも、配偶者控除とは何なのか。
この制度は、戦後圧倒的に多かった「働く夫と専業主婦」家庭の税負担を減らすためのものである。夫は妻や子を経済的に支え、妻は家のことに専念する。そんな価値観が主流であったころの制度といっていい。
しかし、言わずもがな、時代は大きく変わった。
多くの女性はいついかなるときも働いている。近年のバブル崩壊に続く慢性的な不況である。家庭に入ったからといって、いや、家庭に入ったからこそ、家でのんびりしている場合ではなくなっているのである。共働きの世帯が専業主婦世帯を上回ったのが1900年代半ばだ。今でもその差はグングンと開いている。今回の改正は遅すぎた感すらある。
ともあれ、配偶者控除は変わる。この制度は、税率10%では住民税7万6000円、所得税3万3000円、1世帯につき年額およそ10万円強の税金が免除されるものである。この制度の適用の幅が広がったことにホッと胸をなでおろした主婦も多いのではないだろうか。
実際のところ、年収103万円は、パートで働く主婦にとって、あっという間に超えてしまう壁であった。時給1000円で週4日、一日5時間も働けばもうアウトである。かさむ教育費に重い住宅ローン、予想外の出費に頭を抱え、何とか生活を安定させようと頑張る主婦にとって、103万円の壁は頭の痛い問題だったのである。
そこにようやくの改正だ。これでめでたしめでたし・・・と言いたいところであったが、ことはそう単純でも、国は私たち庶民に優しく微笑んだわけでもなかった。
これよりも重大な改正が、今年10月に行われていたからである。
その改正とは「106万円の壁」の創設だ。これは社会保険料支払いの壁である。もっともこの制度は従来から「130万円の壁」として主婦の前に立ちはだかっている。パートの年収が130万円を超えると主婦は夫の扶養から外れ、自分自身で国民年金、健康保険に加入しなければならない。その年額はおよそ24万円に上る。ギャッと悲鳴が上がるほどの負担増なのである。
この恐怖の「130万円の壁」が、要件を満たすことを条件にしているとはいえ、106万円に引き下げられることになったのだ。
その要件とは、従業員501人以上の企業で「週20時間以上勤務」し、「月額8.8万円以上」を稼ぎ、「勤務期間1年以上(見込みを含む)」を経過している、ということであるが、これにあてはまる主婦は全国25万人に上るという。パートやアルバイトにその労働力のほとんどを預けている大手チェーンのスーパーや飲食店などのことを思えば、この数は想像に難くない。実に多くの主婦が、「配偶者控除の限度が150万円に上がった~」などと手放しで喜んでいられなくなったのだ。
もっともこの「106万円」の壁では勤め先の企業が厚生年金の半額を負担することから、先の130万円の壁のときの負担よりは軽い。それでも年収110万円では年額およそ16万円、年収134万円では年額18万5000円ほどの負担となる。決して多くない収入の中からの出費である。たとえ将来の年金額が少し増えるとか、傷病手当が出るといわれても、この支払いを逃れるために就労時間を制限する主婦は多いのではないか。
加えて、パートを雇う企業側も厚生年金保険料の負担を避けるために、彼女たちに「106万円以下で働くこと」を推奨すると考えていい。これは当然の帰結である。
こうなると、先の配偶者控除の限度額引き上げは何のためだったのかと思えてくる。国は女性に「税負担を広く免除するのでどんどん働いてくださいね」と言っておきながら、その姿勢を隠れみのにして、実際には多くの主婦に社会保険料の負担を強いているのである。
しかもこの106万円の壁の対象者はこの先増える可能性があるといわれている。制度の適用範囲をじわじわと広げながら、時間をかけてより多くの主婦から保険料を徴収していこうという算段だ。政治家は心の底から女性の社会進出を応援しているのだろうか。頭の痛い問題は、これからますますその度合いを増して私たちに迫ってくることになりそうだ。
思えば、主婦のまわりにはいつも壁がある。働けば働くほど税負担の壁が立ちはだかり、家に帰れば家事や介護に関心のない夫という壁が待っている。独身の女性も、ジェンダーフリーとは程遠い「男性社会」という壁の中で働きながら、主婦に比して重い税負担に不公平感を抱える。
女性だけではない。男性も、企業という社会の壁の中に閉じ込められている。長時間会社に拘束され有給休暇もまともに消化できない状況は、近年の先進国の中では他にほとんど例をみない。
国は小手先の財政改革を繰り返している場合ではない。体裁として「男女共同参画」「女性の社会進出」を叫んではいるが、その先にある目的は単なる財源の確保であり、その意識はいまだ封建的である。「壁」は制度そのものにではなく、むしろ政治家を含めた我々国民の意識の中にあるのではないか。今こそ、その壁を取り払う力のある政治が必要だ。女性にとっても男性にとっても生きやすい社会は、日本という国に根強く潜む旧態依然とした意識の壁を取り払うことでしか実現しないのである。
1秒の人生訓
1秒の人生訓
うす曇りの10月の夕刻、渋谷に到着した私は、私用の時間まで駅にほど近いマクドナルドで本を読んでいた。
ほどなくして、ガラス越しのカウンターの隅に席をとっていた私の二つ先に、制服姿の女子高生が座った。
「マジ、ふざけんなよ~」
「は?だからガラスんとこの席とったから、はやくして!」
彼女の、電話の相手に発する声は必要以上に大きい。若さゆえの強烈な自意識が、周りの空気を変えた。
しかも、この店の席の間隔は、繁盛店の客席をかせぐべく、異常なほど狭い。彼女の隣の男性の心情はいかばかりか。
間もなく彼女の連れである母親らしき中年の女性が現れ、耳に障る会話が始まった。
どこかの飲食店の批判、JKの制服についての講釈、眉毛がないことによる、アイブロウの必要性。
暴力的に意識に入り込んでくる会話のせいで、こちらは本の世界と女子高生の世界を行ったり来たりである。
しばらくして彼女の隣の男性が席を立ち、続いてカップルと思われる男女がそこに席をとった。相変わらず、大音量は続いている。
それから二十分ほどたった頃だろうか。
不穏なりに保たれていた均衡がいきなり崩れた。
「うるせーんだよ!」
カップルの男性だ。
場が凍りついた。
本どころではない。
チラと女子高生を盗み見する。彼女はビックリして男性のほうを向き、向き直って髪をいじっている。
母親らしき女性も声を発さない。
大音量よりも恐ろしい静寂があたりを包んだ。
私は本に目線を落としながら、完全に心ここにあらずの状態となってしまった。
先ほどまで憎々しく思っていた少女に、なぜか憐憫の情のようなものが沸く。
男性は、もっと別の言い方もできたのではないか。怒鳴られた彼女は今、どんな気持ちなのだろう。きつい言葉を浴びせられた娘を目の当たりにしている母親の切なさは、いかばかりか。
私にも女子高生の娘がいる。うつむく中年の女性は私と重なり、女子高生はわが娘と重なる。
あれこれと思いを巡らせていると、
「あんたのね、声は高いのよ」
「そう。そういうことなのよ」
という抑えこんだ声がした。母親だ。
「そういうこと」。
そうなのだ。娘は非常識を全面に押し出すことで自意識を満たそうとし、母はそれを抑えられない。娘は間違った方向に行きかけている自分をもてあまし、母は娘に気兼ねして、娘を正しい方向に導くことができない。そんな家族の現実が、その一言に重く沈んでいた。
私のなかにも覚えのある、胸につかえるような思い。
しばらくして、怒鳴りつけた男性が席を立った。
すると、
「どうもすいませんでした」
と、母親が、はっきりとした謝罪を男性の背中に向けた。
「いえ」
もはや怒りの消えた男性が気持ちよく応える。
とりあえず終わった。
ひとごとながら、安堵の気持ちが私の中に広がる。
それと同時に、多分、これでよかったのだと思った。
この出来事が、起こってよかった。
男性は、一番身近にいる人間がなしえない人生訓を、彼女に与えたのだから。
「うるせーんだよ!」
社会は、自分中心に回っていない。うるさくすれば人に迷惑をかける。そして、こんな風に怒鳴られることがある。
たったこれだけのことを、身近にいるものだからこそ伝えきれない。見知らぬ男性が彼女に与えた1秒の人生訓を胸に、この親子には頑張ってほしいと思った。
飛び跳ねる思考「東田直樹著」
飛び跳ねる思考「東田直樹著」
2016年7月。相模原にある知的障害者施設に男が侵入、入居者19人の命を奪い、26人にけがを負わせた事件はまだ記憶に新しい。とはいえ事件から約4か月が経過した今、その衝撃は私たち国民の心から遠ざかりつつあるのではないか。
書店で偶然手にした「飛び跳ねる思考」は、私にあの事件のことを思い出させた。
命とは何か。人間の尊厳とは何か。この世に障がいを伴って生まれるということは、何を意味するのか。あの惨事が私たちに突き付けた深い問いに対する答えの一端を、この本は指し示すようであった。
「飛び跳ねる思考」は、重度の自閉症をもつ22歳の青年(現在24歳)、東田直樹さんが、電子メディア媒体「cakes」につづった文章を書籍化したものである。障がいについて書かれた本は多いが、自閉症をもつ本人が書いた本を手にとったのは初めてであった。かつて私の身近に、自閉症の子どもがいた。学校には彼に付き添う職員がおり、ときどき発する奇声や、授業中に教室から飛び出してしまうことに対処していた。自閉症とは、思考や物のとらえ方に混乱をきたす障がいではなかったか。自閉症の人が文章を書けるのだろうか。私の好奇心は大きく動いた。
著者である東田直樹さんとはどのような人物なのか。彼がこれまで出版した本は十冊を超えている。彼は人と会話をすることができない重度の自閉症を抱えているが、文字盤やパソコンを介して私たちに意思を伝えることができる。彼はこの能力を使って健常と呼ばれる私たちとつながり、自身の思いを伝え続けてきた。彼が十三歳の時に書いたエッセイ「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」が自閉症の息子を持つイギリスの小説家デヴィッド・ミッチェル氏の目にとまり、「The Reason I Jump」は二十か国以上で翻訳され、ベストセラーとなっている。彼は現在、エッセイ、短編小説などを手掛けるほか、各地で講演会を行う、世界的に有名な作家なのである。
しかし私は、そうした情報を知らずにこの本を読んだ。
「僕にとって文章を書くことは、息をするのと同じくらい自然なことです」
こう冒頭で記した彼の文章はシンプルでありながら、私たちが知ることのなかった多くのことを教えてくれる。
自閉症をもつ彼がこの世界をどうとらえているのか。人や自然は、彼の目にどう映るのか。彼を取り巻くあらゆる事象は、彼にとって何を意味するのか。
その思考や鋭い観察眼は、健常と呼ばれる私たちがたどり着けない真理に、より深く足を踏み入れているのではないかと感じる。
見上げた空に強く魅かれ、蛇口から流れる水に「大丈夫だよ」という地球からのメッセージを受け取る。絆とは「人が人であることを自覚し、今生きていることを感謝するための祈りの言葉」であると彼は言い、彼のために涙を流してくれた家族に対し、感謝の気持ちを忘れない。彼の目に映る自然や人間の姿が、読む者の心を強く揺さぶる。
それだけではない。鏡に顔を映したとき、瞳だけがクローズアップして見える彼は、そこに映った小さな自分を助け出さなければという思いに駆られる。
「なぜ、そんなところに閉じ込められているの」
私はこれを読んでほとんどワクワクしたといっていい。どこまでもオリジナルなのだ。私は健常とよばれる多数派であるためにこうした世界を見ることができないが、もしかしたら心の奥底にはこんな世界を見てみたいという願望が眠っているのかもしれない。
彼は、詩的であり、哲学的であり、同時にどこまでもオリジナリティ―あふれた世界観をもつ人なのである。
そしてこの本を読んだ者はおそらく考えさせられる。
普通とは何だろう。健常と障がいを分けているものは、単なる「違い」ではないか。多数派がこの世界を動かし、自分たち仕様に仕立て上げている。少数派が邪魔者として排除される傾向は、国家でも小さなコミュニティでも同じである。
その「邪魔者」を、事件の犯人は排除しようとしたのであろう。
「障がい者はいらない」
これもまた、彼が身勝手に作り上げたオリジナルの世界観なのである。
もちろん、障がい者をとりまく問題は単純ではない。健常とよばれる私たちに障害を持つことの本当の苦しみはわからないし、彼らのすべてが、東田さんのように生きることに喜びを見出しているとも言い切れない。
しかし少なくとも、障がい者とよばれる人がそれぞれの主観で懸命に生きていることをこの本は教えてくれる。そして彼らの生きる世界は、ときに私たちの想像を超えて美しいものでもあるのだ。そういう意味でこの本は、己の主観を押しつけて他者の存在価値を推し量る我々の社会に警鐘をならしてもいる。
「不安が悪いわけではなく、不安を抱えながらでないと、生きていけない社会が悪いのです」そうつづった彼の思いは、より多くの人に届けられるべきメッセージであろう。
「飛び跳ねる思考」は、社会に根付く深い問題を私たちに提示し、その答えを改めて考えさせてくれる、珠玉のエッセイなのである。
片付けない娘
片付けない娘
うちの、高校生の娘はすごい。
まるで「そう決めている」かのごとく片付けない。
脱いだ制服はリビングの床。食べたお菓子の包みは捨てずに放置。髪を巻いたコテも、化粧水も、カラコンの残骸もすべて、洗面台に置きっぱなし。弁当箱は出さない。部屋の床は脱いだ服やゴミが一面。彼女の頭の中はいったいどうなっているのだろう。
重ね続けた注意、思いきった叱責、怒りを押し殺しての諭し、これらはすべて惨敗、効果はこれまで、一ミリもなかった。「ハイハイ」「ちょっとまって」というおきまりの生返事にはもううんざりである。
「いったいなぜ。どうしてなんだ~!」
この長年の苦悩に答えをだすべく、私はちょっと立ち止まって考えてみた。するとひとつの考えに思い当たった。もしかしたら娘は、大人といわれる私たちとは全く違う世界に生きているのではないか。娘は若い。思春期真っ只中だ。彼女の鋭い感性はその身におこる出来事すべてをほとんど「事件」レベルで受け止めていて、彼女の毎日は、自分の内面のことや友人のこと、学校でおきたこと等々をなんとか消化することに、ただただ費やされているのではないか。そのせいで、やれ向上心だとか、生活をよくするための習慣などというものを、私たちのように取り入れる余裕がないのではないか。
つまり、彼女にとって「片付け」は、どうでもいい、とるにたらないことなのだ。それだけ、いろいろなことに苦しみ、喜んで、それらをかみしめているのだから。
そんな解釈が浮かんだ。
しかしずいぶん、娘にいいように考えてあげてしまった。悔しい。ただ、だらしない、それでいいじゃないか。でもよくよく思い返してみると、私も若いころ、部屋には足の踏み場もなかった。それだけではない。親の心配をよそに平然と深夜に帰宅することもたびたびであったし、両親の望んだ、安定した会社員の地位もあっさりと捨ててしまった。
その理由、それはただもう、自分自身のこと、彼氏のこと、将来の夢、職場の人間関係や友人のことなんかで頭がいっぱいだったからだ。むろん片付けなどという「日常的なこと」に心を添わせる余裕なんて、全くなかった。つまり、今の娘とおそらくおんなじだったのである。もっとはっきり言うと、私はかつての自分のことを忘れたふりをしていた。母という属性を味方につけ、体よく過去の自分を棚にあげていただけなのだ。
そうしてみると、今になって母の切なさがわかる。あの頃の母は、私たちがテレビの前でくつろいでいると、「ほら、じゃまじゃま!」とプンプンしながら掃除機をかけていた。そんな母に、口にはださないものの、「うるさいなあ」「掃除機なんてあとにしてくれないかな」などと不謹慎な思いを抱いたものである。その怒れる母の姿は、今の私そのものではないか。
悔しいけれど、片付けない娘に関しては多少大目にみてあげるしかないのかもしれない。もはや、あの頃の母に軽く仕返しをうけている気分だ。因果応報、因果は巡る。
せめて大人になったら。二十歳とはいわない、ちょっと譲って二十三歳くらいでもいい、娘には、片付けに目覚め、大人らしい向上心に目覚め、折り目正しい生活をしてほしい。報道で目にするあの絶望的なゴミ屋敷の主と化するのだけは、どうか勘弁してほしい。
娘がジャニーズのDVDを見ながらニヤニヤしている。ソファーの上にはカントリーマアムの包み紙。つい、いつもの感情がこみあげる。やっぱりだらしないだけか。私の心の葛藤はまだまだ続きそうである。
彼女がその名を知らない鳥たち 沼田まほかる
この物語を読み終わった後、あまりの展開、あまりの切なさ、あまりの愛おしさに涙がにじんできて困った。
小説を読んで泣いてしまうなんて、本当に久しぶりだった。
物語をおおよそ読み進めたころ、「あ、これは!」と驚きの結末に気づき、その瞬間、今までの場面、作中の人物がかわした言葉、あらゆる行為、それら様々なことの含んでいる意味がいっぺんに降りてきて、「そうだったんだ、だから・・・」と胸が言いようのない感動でいっぱいになった。
ミステリー小説として十分な面白みがありながら、人間の深淵にここまで肉薄することができるなんて・・・。
やっぱり私は沼田まほかるの小説が好きだ。